型稽古について(或いは如何にして使太刀が上達するか)

以前ツイッターでつぶやいたことをまとめました。以下ツイッターより転記です。


ちょっと型稽古について思いついたことがあってつぶやいてみます。

軽く検索してみると型稽古について色んなことを書かれている方がおいでなので、同じようなことを言っている方もおられるかもしれませんが、そういう方はご容赦ください。


新陰流では型稽古をする時、初学者が上級者を相手にして、初学者が勝つ側になって型稽古をします。この初学者の側を使太刀、上級者の側を打太刀といいます。この稽古によって初学者は、勝ち口、勝ち味を覚えます。どうしたら勝つのかを型が教えるのです。

どの様にしたら勝てるのかは、まず体の使い方です。体を傾けず真っ直ぐに立てて捻らず、地面を蹴らずに前に出る、或いは身を沈める。

肩を落とし肘は柔らかく伸ばして屈伸させない。手は太刀の柄を小指から薬指、中指と強く握り、人差し指と親指は握らずその股を柄に押し当て隙間を作らない様にする。

それから間合いです。大きく踏み込み過ぎては相打ちになりますし、浅ければ届きません。

拍子もあります。相手が動く前に動くとダメですし、遅すぎてもいけません。相手が動くのを見て、少し遅れて連れ従う様に動くのがいいです。

これらの事を気をつけながら使太刀が勝つ型をするわけです。型は使太刀が当然にして勝つわけですが、その「当然」は、初学者にとって当然とはなりません。

打太刀がちょっとリズムを崩したりすると途端に勝ちきれなくなる。

しかし型に含まれる「当然」はそこで使太刀が勝つ事を要求します。

型の「当然」は、その型の含む想定された様々な状況から、使太刀の「構え」によって打太刀がその攻撃を限定され、行ってくるギリギリの打ち込みを上回る事を使太刀に要求しているのです。

当たり前のことですが、初学者にはその様なことは分かりません。しかし分からなくても型の通りにやれ、となる。

型の要求する所を余りにも実現できていなければ使太刀が勝つことはできませんが、打太刀は敢えて負けています。時には「それではこう打たれる」と使太刀に打太刀が勝つ様なこともやりますが、概ね打太刀は負けています。

でなければ使太刀は勝つ感触を覚えられないからです。

勝つ感触とは簡単に言って「相手がこう来た時に自分がこうすれば勝てる。」という理解です。知っているだけではなく理解している必要がある。

…、「こうすれば」というのは体の立て方、歩法、執刀法、間合い、拍子、目付の全てなのですが。

これらの「こうすれば」が全て「出来る」と勝てるか、と言うと、まだ、勝ちきれないのではないかと思います。

全てを個別に行えるだけでは足りないし、同時に行えるという事実だけだとまだ足りないと思う。

しかし、同時に行える様になる頃には、大抵は勝てるようになってくるでしょう。

何が起きているのかといえば、勝つ感触を積み重ねた事によって、恐れ、迷いが無くなる。

十分に相手を見て、恐れず迷わず型通りに考え込まず動く。「思考」をショートカットして流儀の動きで動き、流儀の目付で相手を見る。

それが型に要求されているものなのではないかと思いました。